「侵略」「植民地支配」「反省」「おわび」などの「キーワード」を入れるかどうかが焦点とされ、新聞などでは「キーワード」が入ったことで一定の配慮がなされ折衷的なものに収まったという論調もあります。しかし、そうした評価は安倍首相が「戦後70年談話」に込めた意図をあいまいにするものでしかありません。
確かに安倍は、1945年の敗戦に至る侵略戦争の歴史を全面的に「正しかった」と言うことはできませんでした。しかし、「間違っていた」とも言っていません。むしろ、談話の最大の特徴は「日露戦争は、植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました」と日露戦争を正当化したことです。そして、その結果としての韓国併合や中国東北地方(「満州」)の植民地化、中国全土、アジア・太平洋諸国への侵略拡大に言及しないことで“日本が朝鮮・中国・アジアに対して行った戦争が侵略戦争だとは絶対に認めない”という意思を示したのです。
※談話発表後の記者会見でも、安倍は日本の行いが侵略だったかどうかは「後世の歴史家に委ねる」と述べています。
※日露戦争は、日本とロシアという二つの後発帝国主義が、朝鮮と中国東北地方の争奪をかけて、日本が米英の、ロシアが独仏の金融資本の援助を受けて戦った帝国主義戦争であり、中国・朝鮮民衆に対する侵略戦争でした。
8月15日付沖縄タイムス
そして、談話の結論は「積極的平和主義」です。談話によれば、「誤り」とは「満州事変」を機に「国際秩序への挑戦者」の側に立ってしまったこと。だから戦後は「(アジアの)平和と繁栄のために力を尽くしてき」た、と。さらに今後は「積極的平和主義」の旗を掲げて「世界の平和と繁栄にこれまで以上に貢献していく」。つまり、「国際秩序」の側に立って自衛隊を世界中にガンガン出撃させ、「国際秩序への挑戦者」を懲らしめる側に立つということです。何よりその念頭にあるのは「朝鮮半島有事」や対中国を見据えた侵略戦争です。4月の米議会演説、安保法案や辺野古新基地建設とも一体の「新たな侵略戦争宣言」です。
4月29日、安倍首相の米議会での演説
したがって、「侵略」「植民地支配」「反省」「おわび」の「キーワード」も、言葉としてただ散りばめただけに過ぎません。
「植民地支配」の主語はあくまで「西欧諸国」であり、自らの「日露戦争」は、アジア・アフリカを植民地支配からの解放に導いたと強弁。「満州事変」以降の侵略拡大と対米開戦も、世界大恐慌と欧米諸国によるブロック経済化で追いつめられた結果だと責任転嫁しています。
アジア民衆に対する「反省」「おわび」については歴代内閣の立場を紹介するにとどめ、自らは「謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」と清算を宣言。日本の侵略と植民地支配からの解放をかけて闘ったアジア民衆について、「苦難の歴史」と客観視し(北朝鮮については完全無視)、とことん戦争責任から逃げ回っています。
国内の民衆への戦争責任についても同じです。「何の罪もない人々に、計り知れない損害と苦痛を、わが国が与えた」と認めながら、「歴史とは実の取り返しのつかない、苛烈なものです」と責任はあいまい化。「尊い犠牲の上に、現在の平和がある」とうそぶき、「祖国の行く末を案じ…戦陣に散った」などと靖国思想に動員しようとしています。
軍隊慰安婦への批判に対しても、「名誉と尊厳を傷つけられた女性たちがいた」とごまかしてすりぬけています。すべてがペテンです。
8月15日付沖縄タイムス
戦後についても、「自由で民主的な国を創り上げ、法の支配を重んじ、ひたすら不戦の誓いを堅持して参りました。70年間に及ぶ平和国家としての歩み」と言及していますが、歴史の偽造です。戦後も日本は沖縄を米軍基地の島とし、「日米安保」のもとに朝鮮戦争、ベトナム戦争など一貫して戦争に協力してきました。戦後とは、「平和国家」の仮象のもとに沖縄を「基地の島」「戦争の出撃基地」としてきた歴史であり、日米同盟をテコに再び戦争のできる帝国主義への回帰をもくろむ支配階級と「二度と戦争を許さない」という沖縄-全国の労働者民衆との絶え間ない闘いの歴史でした。それが歴史の真実です。
安倍は、大恐慌下で没落にあえぐ日帝ブルジョアジーの戦争衝動を代表し、敗戦帝国主義としての制約を打破するという彼らの悲願をかけ、「戦後レジームの脱却」を掲げた過去の歴史の清算を試みました。しかし、それは彼らのご都合主義的な「歴史観」がおよそ通用しないこと、彼らが歴史を総括することなど根本的にできないことを逆に証明したのです。「戦後70年談話」は、新たな戦争に民衆を動員するどころか、沖縄はもちろん、日本とアジアの怒りに火をつけることは必至です。国際連帯をもって、今こそ彼らと歴史の決着をつけ、打倒する時です。
ちなみに、沖縄大学の名誉教授である新崎盛暉氏は、「戦後70年談話」をめぐる安倍政権の動揺を「大衆迎合的」、「キーワード」をすべて取り込んだ談話を「主体性と具体性を全く欠いたものとなった」と、もっぱら右から「批判」しています。
また、「謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」という主張には「その通りである」と賛同すらしています。そして、その根拠として戦争責任問題は「村山談話や河野談話でとりあえず一区切りついた問題」であるという認識すら示しています。「足りないところは実践的に補いながら、韓国や中国の民衆と、相互批判を通して、未来志向の友好関係をつくっていける」と。
「安倍政権はもっと主体性を発揮してがんばれ」「足りないところは沖縄大学が補う」とでもいうのでしょうか! こうした路線の反映が、「ビラまき全面禁止」「集会やったら処分」に象徴される沖大キャンパスの現実だと思います。学生の力で絶対に覆さなければいけません!
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